2つセットで引用をする。
新現実VOL3『大塚と香山対談』と昨日も取り上げた佐藤俊樹『00世代の格差ゲーム』
引用は長い。大量。
長いので先に「感じ」を。
★ ☆
競争を基本に社会をつくりなおすこと、
その前提として「結果の平等」ではなく「機会の平等」にシフトしていくこと、
これらの転換は一見、正しそうに見える。
ボクも この未来図を結構、納得し受け入れるべきだな と思っていた。
が、大変なことになりますよ。
正確には、大変なことになる可能性がありますよ。
それらは、他責感情を助長しキレるを増進し爆発する構造になってますよ、
こういう予言が2つセットの引用から見て取れる。
「機会の平等」と「競争」を基本として
格差を容認していく社会。
そういう社会はどうも「社会」という概念さえ消え失せ
キレる・暴発するがしばしば起こる、
物騒な生活空間とセット になっているような印象を持ちます。
さて、以下 なが~~~い引用です。
★ ☆ ☆新現実VOL3 大塚英志vs香山リカ☆ ★ ★
大塚
だから、永山則夫も永田洋子も、その時々でさみんなが「あいつが私だったら」って口走ってたでしょ、時代時代で。
それこそ佐川一政の時だって四方田犬彦か何かが「あれは俺だったかも」っていうことを言っちゃってた。
宮崎の時は僕らが、同じようにやっちゃってたわけ。
リカ
そうなの。
それが大阪池田小や長崎の幼児殺害事件では、ホントにだれもそんなこと言わなかった。
大阪の事件にしても、あの事件そのものは置いておいて、日本の階層化の問題とか学歴社会の問題とか、社会に投げかけるものが全くなかったわけじゃない。
でもだれもそんなことは口に出せない雰囲気だった。
それは事件そのものの残忍さとはまた別個の問題だと思う。
だって以前は、三菱銀行事件の梅川にさえ、社会という背景を持たせて考えていたんだから。
大塚
社会って言う言葉が亡くなっちゃったわけじゃない。
社会の責任とかさ、社会の責任として受けとめるとかさ。
そういうのがなくなって。
その割には、犯罪のパターンみたいなのって、意外と、世の中の人びとの感情を正確に代行してるんじゃない。
さっきの池田小学校にしてもさ、ネットとか人が書く文章を見ていると、あ、この部分にいるひとたちの感情に、あの事件は絶対シンクロしているとなっていうかさ。
そういったものが突発的にああいうふうに表出したんだなっっていうのは、本当はわかるはずなんだけどね。
(略)
◇
リカ
なにか事件が起きたときに、「私と犯人の違いは?」と考えてみたり、そこまで行かなくても「自分の中にもそういう攻撃的な気持ちがあるかも」と気づいてみたり、ということはない。
それも、犯罪の抑止には大切だと思うのだけれど。
ひたすら「そんな人は死刑ですよ」「一生刑務所に閉じこめておけ」とか言う。
じゃあ「あなたがもし何かしたら、死刑になってもいいの?」ときくと、「そんなことやらないですよ」って。
「もし」という仮定してみることすらしない。
「頭がおかしい人を病院から出すな」とかって平気で言う若者もいるんですよ。(略)
大塚
「他人の問題をなぜ自分が考えなきゃいけないのか」っていうのがもの凄い強いみたい。だから、たまに講演とかを頼まれて、学生相手にそれこそ少年犯罪の話とかをさせられても、最後に出てくるのは、「なんでそういう人の話を自分たちの問題として考えなきゃいけないんですか?」ってね、凄い直球な質問が出てきてね
リカ
あるいは、「ウチの子がそうしないためにはどうすればいいですか?」とかすごいストレートですよね。
大塚
そこなんだよ。
だから、きっと最初のあたりの話ともきっとつながってくるんだろうけれど。
問題を共有しましょう、自分の問題として考えましょうというところは説得できないとか。
◇ ◇
リカ
よく「最近目立つ心の病気の傾向は何ですか」って聞かれて、そういわれると意地になって「病気はあまり変わりません」とかって言うんだけれど、実は圧倒的に変わってきたことがある。
それは、うつ病の人から自責的にっていうか、自分が悪い、申し訳ない、みんなに迷惑かけている、って気持ちが急速になくなりつつある。
それは、もの凄い変化だと思う。
他の病状からみるとうつ病としか診断できないような人なのに、昔の精神医学の教科書にあるように「とにかく会社に申し訳なくて」とか「私が迷惑をかけていて同僚に悪い」といった自責的、自罰的なことを口にしない。
だから、治療者も「これは病気が悪いんですよ。あなたは悪くないんですよ」とか「必ず、良くなりますから、自分を責めるのはやめましょうよ」「仕事の遅れはすぐに取り戻せますから、休養は迷惑じゃないですよ」とかってマニュアルどおりに言えない。
とにかく「会社のせいでこんなになっちゃんたんです。」「上司がわかってくれなくて」「親がすべて悪いんです」っていうふうに、とにかく他責的。
「私は被害者だ」って。
大塚
そうか。
そういうレベルで責任っていう概念や、感覚がそもそも成立しないんだ。
リカ
ついこっちが逆に、「会社が悪いって言うけど、そんなに勝手に休んでたらまわりに迷惑かけてるんじゃないですか」ってタブーをおかしそうになる。
とにかく圧倒的に人のせいにするっていう、あれは驚くべき変化だと思う。
★ ☆ ☆ 00年代の格差ゲーム 佐藤俊樹著 ☆ ★ ★
なぜ「弱者」がいなくなるのか。これには大きく2つの仕掛がある。
まず第一に、結果の平等と機会の平等では“弱者”の意味が大きく違ってくる、
結果の平等の下では、“弱者”というのは不当な目にあっている人になる。
持てるものと持たざるものの極端な格差、つまり極端な強い弱いの差事態が悪である以上、弱い立場の人間はつねに被害者である。
機会の平等の下では、そうはならない。
あえて嫌な言い方をつかえば、たんなる可哀想な人、になるのだ。
だから機会の平等を掲げる社会では、誰も自分を“弱者”と認めたがらない。
認めれば二級市民にされるからである。
「弱者切り捨て反対」とか「弱者救済」を唱える政党が広い支持を集めるのも難しい。
そういう政党を支持することは、自分が二級市民だと認めることにつながりかねない。
競争を是とする社会の中で、そしてついこの間まで、一億総中流意識のなかで「人並み」であろうと必死で努力してきた人びとにとって、それは強烈にタブーである。(略)
結果の平等を掲げる社会では「弱者がいる」は「正しくない」に直結する。
それに対して、機会の平等を掲げる社会では「弱者がいる」は「正しくない」に直結しない。
この社会で「正しくない」に直結するのは「不公平」である。
従って、構造的に不利益を受けている人たちに訴えかけるのも、“弱者”ではなく、「アンフェアな目にあっている人」と呼ぶことからはじめるしかない。
簡単に言えば、「弱者救済」とううスローガン事態が耐用年数にきているのだ。
(弱者が消える2つめのメカニズムについては 略)
機会平等の下では、「敗れた」のは当人のせいで、社会のせいではない。
だから、「貧乏だから正しい」とはいえないし、ゆたかさによって自分を肯定することももちろんできない。
”敗者”は自分を肯定する術をもたないのだ。
それでも、実際に機会が平等であるならば、「自分の努力が足りなかった」と思って再起を図ることができる。
再挑戦できると信じているうちは、強い自己否定感から逃れられる。
たとえずっと“敗者”でありつづけたとしても、それはあくまでも自分の責任であり、自己否定は自己の中でとどまる。
裏返せば、機会の平等がかくほされていなければ、この自己否定は他人に向けられる。
自分が否定された苦しみを、他人も否定することで埋め合わせようとするのである。
”敗者”からすれば、敗れたのは自分のせいではないが、周囲はそうと認めない。
その分、否定感は鬱屈し、あるとき爆発的に噴出する。
噴出する相手、つまり身代わりの羊は誰でもいい。
自分も不当に否定されたのだから、他人を不当に否定してもかまわない。
現代風に言えば、「自分が不当に否定されたのだから、自分は他人を不当に否定する権利がある」と思うわけだ。
「不当評価だ」という意識が危ないのは、そこである。
★
ながっ
引用はここまでっす。
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