希望、存在、死
★「言葉」は、「うっ」「ぐっ」と唸らされた言葉を備忘録代わりに記述していこうとするもので、カテゴリー「心と体」に当面は蓄積していきます。
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昨日の記事でも取り上げた中央公論4月号に、「14歳からの哲学」の池田晶子と東大社会科学助教授・玄田有史の対談が掲載されている。
ちょっと長くなるんだけれど、打ち込んで残しておきたいと思ったので以下に打ち込む。
なお、この対談を打ち込もうと思ったのは、古い記事「なぜ人を殺してはいけないのか」に昨日 一児の母さんがコメントをくれたのがきっかけ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを深いところから考えるには良い刺激をこの対談は与えてくれているなと感じたのです。
一児の母さん、きっかけをありがとうございました。
☆ ★ ★ ☆
玄田:
池田さんは希望ということについては、書かれていますか?
池田:
人が希望を失うということは、つまりその希望を外の世界に求めているからですよね。社会とか他人に希望を求めているから裏切られたり、失望したり、ということになる。
そもそも自分がより良い、賢い人間になりたいということだけを希望としておけば、失うはずがないんですよね。
(略)
玄田:
ということは、希望がないっていう子は自分自身に失望しているということですか
池田:
自分の見つめ方を覚えればいいんですよ
玄田:
どうやったら見つめられるんですか
池田:
考えることですよね。
どうして自分は存在するんだということでびっくりする。
それから、なぜ人は死ぬのか、死ぬってどういうことなのか・・・
(略)
玄田:
自分が死ぬんだということを幼いときには初めて思った、あのときの恐怖感はちょっと忘れられない。一生覚えているでしょうね
池田:
そこから考え始めるか、わからなかったり、怖いからと蓋をしてしまうかこれがたぶん考えるかどうかの分かれ目ですね。
(略)
玄田
希望について考えることは、死について考えることとかなりオーバーラップしますね。
池田:
自分を見つめ直すということですからね。世の中ではなく、自分の事だけ見ていればいいんですよ。それをしないのは、見方を覚えてないからです。だからこの本を書きました。自分のことをまず見てごらん、と。こんなにわからないものがまさにここにあるんじゃないの、と。
☆ ★ ★ ★
「なぜ人を殺してはいけないのか」。
以前の記事に書いたように、結局、様々議論を呼んだこの議論は、「その問いを問いとして成立させてしまった時点でその社会はもう既に病んでいる」という状況分析的答えで収束した。
この対談で、池田晶子は直線的に答えず、
「どうして自分は存在するんだということでびっくりする」「自分が死ぬんだというところから考える」ことを示唆している。
★ ☆
池田晶子はずっとずっと長い間同じ事を言っている。考えろ、考えろ、考えろ。
考えることは覚えることではない。
考えることは悩むことではない。
悩まずに考えなさい。
考える時間をとれなどと言わない。人はいま、この場で考えることができる。
池田晶子は同じ事をずっと言ってるんだけれど、そのたびに不思議に「う~む」と考えさせられる。
不思議な魅力的な人だ。



Comments
一児の母さん
また深いコメントを。
ボクは恵まれているのでしょうか、死体を見たことがありません。親も健在だし。
かわいがっていたペットが死んだだけで胸がず~と痛く、しんどかった事を思い出すと、身近な人の死が眼前にあらわれたらどうなっちゃうんだろう と思います。
他方、少なくとも、そういう事でさえ考えることをしていれば、「なぜ殺してはいけないのか」という問は生まれないんだろうなぁとは思っているんですけれど。
Posted by: ono | 2004.03.17 at 06:13 PM
早速新たな課題を与えてくださってありがとうございます。とっても昔の記事へのコメントだったのに・・・。
前半の希望についての記事はあんまりピンと来ませんでした(内容全部読まないと解かりませんね^^)
後半の「自分は存在するんだ・・・」「自分は死ぬんだと思ったときの恐怖感・・・・」のところからう~むっと。
死と存在リンクしますよね。
存在の意味・・・難しいですね。ただ生きている存在することだけで意味がある。その意味とは必ず誰かの記憶の中に残る。そして繋がっていくそれが今の世界を創っている。
前回のコメントとかぶりますが食物連鎖の頂点にいる人間同士は物体として体内に取り込んで繋げていく事が出来ない。だから精神的な部分で繋げて行くのではないかと。
何だかずれてきましたね。。。このことを考えてると死後の世界観のようになります(ちなみに私は無宗教です)。
存在の意味・生きてる意味を以前考えてるときにある一つの事にぶつかりました。生きてるそれだけで意味があると思ってた時「死産」を目の当たりにしました。この意味はいったいなんなのでしょうと。死してもなお生まれてくる意味。。
今では同じく繋がりとして大きな役目を果たしてるのかな~と思ってますが。どう考えますか?
「自分が死ぬんだという恐怖」の文面を見て藤原新也のメメントモリの一文を思い出しました。誰もが三途の河をみた~(忘れました。又読んでみよ!)
文章力ないので読みにくいと思います・・・スミマセン。又きます。
Posted by: 一児の母 | 2004.03.17 at 01:59 PM